「あちら」を理解するには「こちら」が目線を落とさねば

ローソンとかバーガーキングの従業員が冷蔵庫に入ったり、丸源ラーメンの従業員がソーセージを加えたり、まあとにかく最近になってあちらこちらからバカをやる人が晒されて会社が謝罪して、というニュースが多いですね。

それ自体については、まあ「バカだなあ」ぐらいにしか感想が出ないのですが、それについて言及しているブログを読んで、ふと思いついたので一つ記事を書きます。

この2つのブログ、脱社畜ブログさんと24時間残念営業さん、どちらもはてなブロガーの中でも多くの購読者を持っていて、それなりに影響力があります。それは、どちらも意見の筋が通っていて、「なるほどな」と読者を言わしめる説得力とか文章力があるからだと思います。

さて、その2つのブログが、これらの事件(全体的になんて呼称すればいいですかね、企業倫理ぶち壊し事件?)について、いろいろと考えたことをまとめたのが先ほどの記事なのです。しかし、残念ながらこの事件を根本から解決する方策は、はっきりとは示されませんでした。

というよりは、こういった問題についての正答などない、ということが示されているのではないでしょうか。

今までマスコミで、ネット上で、取り上げられてきた問題って、何かしら誰かしら、ババ〜ン!と解決策を提示する人がいたんですよ。表現規制法案問題とか、山本太郎議員のデマとか、自民党憲法改正案とか、韓国の反日活動とか、それぞれの問題に対して「異議あり!」って言う人がいて、それらに対して「こうするべきだ!」って提示する人が少なからずいたんですよ。

でも、今回の事件はそんな人にまだ出会っていません。「そんな従業員はクビにしろ」とか言っている人はいたかもしれませんが、でもそれは根本的な解決ではない、って多分言った張本人もわかっているのです。

端的に言えば、そんなバカな事件を引き起こす人の数が多すぎる。よりマクロな視点で見れば、そういうことを平気でやらかしてしまう人々(24時間残念営業さんの言葉を借りれば低学歴の世界)が、というよりそんな人々の集まりがある。そしてそれは、そんな人達を全員クビにした所で解決出来るわけじゃない。

なぜクビにしても解決しないか、といえば、そんな人々の絶対数が多いわけで、その職場を辞めたところで、また似たような職場に就職して、また似たような問題を起こす可能性が非常に高いからだ。そんな人々を完全に排除できるほど、この世の中は広くないのだ。

――少し話が逸れるが、自分が大学院生だったころ、「サイエンス・コミュニケーション」という考え方に出会って、授業を履修したりインターンシップを受けたりしていた。

サイエンス・コミュニケーション(SC)とは、「科学技術の専門家が、一般の人達とのコミュニケーションを図ることで、科学技術についての見識を深めてもらうこと」である。「専門家同士はどうするの」とか「専門家を交えなくても科学についてのコミュニケーションは出来るんじゃないか」とかいろいろ意見はあると思いますがひとまず置いておいて。

こういった、従来なんとなく隔たりがあったお互いの垣根を低くして、少しでも理解しよう、という動きがSCである。で、この「少しでも」というところがミソで、いきなり専門知識をすべて教えようとしても、非専門家はそんなに分かるはずがない。そんなことをしようとすれば却って拒否反応が出てしまって、ますます科学技術に対する苦手意識が強まってしまう。

だから、SCではまず「科学の面白さ」とか「科学の身近さ」から攻め込んで話を進める。自分の科博での講座を例にすれば、まずは物差しとか巻尺とか「長さを測るもの」という例を挙げる。次いで、「光ってどんな性質なのかな?」という話につなげる。で、「光で長さを測る」ということが出来るんだよ、凄いでしょーすごく精密に測れるんだよー!という話に落ち着かせるのである。間違ってもいきなり「ヘリウム-ネオンで励起されたレーザー光を干渉させる原理を応用して原子間力顕微鏡が作られています」なんて専門用語をバンバン出してはいけないのである。

SCで心がけるのは、常に相手の目線で考える、専門用語を極力置き換える、説明が難しい箇所は――科学的に間違った言い方になってしまってでも――極力簡単にする、ということである。

「SCで心がけるのは」と言ったけれど、別にこれはサイエンスに限らず、ありとあらゆるコミュニケーションに於いてもそうなのである。相手が興味を持ってもらえるところから始めて、お互いの言葉を交わしながら、少しずつ分かってもらう、それがコミュニケーションというもの、ではないだろうか。

最初のお題に戻ると、つまり「低学歴の世界」の人々ときちんとしたコミュニケーションを図るには、「高学歴の世界」の人たちはちゃんと目線を合わせてやらないといけない。SCに於いては非専門家の目線に専門家が目線を落とすように、「低学歴の世界」の人々の目線に「高学歴の世界」の人々が目線を落とさなければいけない。逆は不可能である。

これが中々難しい。でもSCの場合、科学技術以外については、専門家と非専門家との間でもある程度の共通認識があることが多く、またSCに臨んでいる人たちは、非専門家といえども多少はサイエンスに触れようという意識があるからだ。

しかし、これの話が大きくなると大変である。何せ「低学歴の世界」と「高学歴の世界」、もしかしたら話題の共通項なんてないかもしれない。そもそも「低学歴の世界」の人々はそんなコミュニケーションをしようという意志があるだろうか?「高学歴の人々」もそんなバカな人々に付き合っていこうなんて思っているだろうか?そもそも目線を合わせるために、身を屈めるようなこともしたくないんじゃないだろうか。

「そんなバカに付き合っていられない」という「高学歴の人々」は少なからず存在する。それは、SCを持ちかけて「専門知識なんて専門家が持っていれば充分」と言い放った大学教授が存在するように、やはり存在する。

しかし、「そんなバカに付き合」わなければいけないこともある。小売チェーンやレストラン会社の経営陣は「高学歴の世界」の人々が占めていても、その末端で働く人々は、非正規雇用であり、大学はおろか高校にも通っていない人がいるような、「低学歴の世界」なのである。そういう人たちと、ちゃんとコミュニケーションを取って、働いてもらったり、コントロールしたり、しなければいけないのだ。

というわけで、今回の結論としては、バカと結論付けず、少し目線を落としてみなよ、バカだけどという感じでしょうか。長々書いたけれども結局はっきりとした結論が出ないあたり、この件に関してはなかなか答えが見つからない問題なのだな、と思いました。

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