「映画大好きポンポさん」と使われた2つのクラシック音楽

現在公開中の劇場アニメ『映画大好きポンポさん』を観てきました。

一言でいえば「面白い!」なのですが、観てきて気づいた点、特に使われている音楽について語りたい事項があってこの記事を書き記そうとしています。

なおここから先、ネタバレ全開で書くので、ネタバレせずに映画を見ておきたい人は回れ右してこのページを閉じてください。


『映画大好きポンポさん』は、元々は杉谷庄吾【人間プラモ】さんが発表したマンガ作品。2017年4月4日に画像投稿サイト pixivに、136ページに及ぶマンガを突如として公開されたこの作品はまたたく間に注目を集めました。

同作品(以下「漫画第1巻」)はその後、「映画大好きポンポさん2」(以下「漫画第2巻」)やアンソロジー作品など、様々な続編が出ています。

そんな漫画第1巻を原作として、平尾隆之の監督・脚本、CLAPの制作により劇場アニメーション(以下「劇場版」)となって2021年6月に公開されました。

敏腕映画プロデューサー・ポンポさんのもとで製作アシスタントをしているジーン。映画に心を奪われた彼は、観た映画をすべて記憶している映画通だ。映画を撮ることにも憧れていたが、自分には無理だと卑屈になる毎日。だが、ポンポさんに15秒CMの制作を任され、映画づくりに没頭する楽しさを知るのだった。 ある日、ジーンはポンポさんから次に制作する映画『MEISTER』の脚本を渡される。伝説の俳優の復帰作にして、頭がしびれるほど興奮する内容。大ヒットを確信するが……なんと、監督に指名されたのはCMが評価されたジーンだった! ポンポさんの目利きにかなった新人女優をヒロインに迎え、波瀾万丈の撮影が始まろうとしていた。

大谷凜香さん演じる新人女優ナタリー・ウッドワード役はいかにも新人!という感じで最初は硬い演技なのですが、『MEISTER』でのリリーとして撮影中は自然の中で育った中性的な女性という役を見事に演じています。

『MEISTER』でもうひとりの主役を演じる大物俳優、マーティン・ブラドッグを演じるのはこれまた大物声優である大塚明夫さん。「世界一の俳優」という呼び名は伊達じゃない!という感じで、作品に重みを付けています。「大物だけれど意外とフランク」というマーティンとしての性格、『MEISTER』で天才音楽家ダルベールを演じている際は「帝王」と呼ばれる自信家の指揮者としての性格を存分に表現しています。

ところで。漫画第1巻で表現されていた感動が、映画版ではどうしても表現しきれていなかったシーンがあります。

「リリーがアリアを口ずさんでいる所をダルベールに呼び止められて振り向くシーン」というのが『MEISTER』の一番良いシーンで、ポンポさんはこのシーンをナタリーの姿から発想してこの脚本を書いています。

そのシーンの美しさを、漫画第1巻では「そのシーンのコマだけ美麗なカラーで描く」として表現しています。ここだけ見開き2ページ、ドオーンと煌めくカラー!表紙を除けばモノクロだった136ページの中でここだけ極めて美しく、それが読者に「なるほどこれほどまでにこのシーンは素晴らしいんだ」ということを理解するのです。

それじゃ映画版はこのシーンは美しくないか、というとそんなことはなく。そうではなく、他のシーンも、映画会社に通勤する途中のシーンや雨の工事現場のシーンも含めて、どれも美しいシーンばっかりなんですわ。それ故、映画のその大事なシーンがそれほど目立たなくなってしまう、ということになってしまっています。

まあ、なのでこの映画の魅力が損なわれてしまった、というわけではないです、ええ。

映画化のときに省略されたシーンもあれば、追加されたシーンもあります。劇場版で変更されたシーンの一つは、アルプスでの『MEISTER』撮影のシーンです。

漫画第1巻で、「突然の土砂降りにジーン監督が思い付いて、脚本にない『屋根が壊れたヤギ小屋をリリーの指示で(スーツ姿のまま)ダルベールが屋根に登って直す』というシーンを撮影する」という描写があります。ポンポさんの祖父であり名プロデューサーであるJ. D. ペーターゼンさんの「現場は生き物」「一瞬のきらめきを逃さず捕まえ」るという教えを実行に移しているところです。

劇場版ではヤギ小屋を直すシーンに、「老朽化してヤギ小屋が壊れてしまった」「脱走したヤギが何匹か野生の狼に襲われてしまいヤギの頭数が少なくなった」という背景を添えています。そこに天候が悪化して濃霧となっている撮影現場ですが、それにスモークを追加し、即席のヤギのパネルで多くのヤギがいるように見せかけることで、「ヤギに囲まれて恐怖するダルベールをリリーが導く」というシーンをさらに印象深くしています。

ヤギ小屋の屋根を直すシーン、思い付いたのがジーン監督なのは漫画第1巻と同じ流れですが、そこに「直している最中にダルベールが滑って転んで泥だらけになる」「ヤギに顔をなめられるダルベール」「それをリリーが笑い飛ばす」「ムカついたダルベールがリリーに泥を投げつける」というアイデアが追加されます。アイデアを口にする俳優たちに続いて、現場のスタッフもアイデアを畳み掛け、調子よく撮影に進みます。撮影の終わりに雨が上がって虹が出る、というところまでスムーズにファインダーに収まります。

俳優とスタッフの垣根を超えて撮影が進むことで、良い雰囲気の撮影の様子が伝わりますし、このシーンで傷心のダルベールが心をひらいていく描写に説得力が増しています。

劇場版の後半はほぼ丸々オリジナル展開です。漫画第1巻で3ページ程度で終わらせた編集作業ですが、劇場版ではジーン監督が悩みに悩み、ポンポさんに追加撮影のお願いをします。

この追加シーンが良いと思ったところが4つ。1つ目はジーン・フィニはそういう人であるということ。漫画第2巻でジーン・フィニは、シリーズを通して最大の「やらかし」を犯します。ただそれは彼の映画に対するこだわりが強いがためであり、それだけ彼が癖が強く、しかし映画を愛しているということの証左でもあるのです。(どんなやらかしをしたのか、気になる人は映画大好きポンポさん2を読もう!)

映画作りにこだわりのあるジーン・フィニが、与えられた脚本だけで撮影を満足するだろうか?否。こだわりのある彼ならば、ダルベールが名声を獲得するなかで何を得て、何を捨てたか、そのバックボーンまで視野を広げることでしょう。ダルベールの性格を語るのに不可欠な内容をシーンとして撮る必要があるなら、ジーン監督は追加の撮影を申し出るに違いないのです。

追加シーンによってダルベールの人格形成に深みが出たというのが追加シーンでのメリット2つ目。「帝王」とまで呼ばれたダルベール、音楽に対するこだわりは人一倍あり、未熟な奏者を罵倒し、実力不足とみるや奏者の交代をプロデューサーに指図するなどやりたい放題。その自分勝手さから音楽祭での大失態を生む、という描写がされています。カラヤンかな?(漫画第1巻ではここまで詳細には語られていませんが、劇場版での『MEISTER』の脚本には当初から描かれているシーンです。)

ジーン監督はこの彼の性格にさらに踏み込み、「音楽を追求するあまり家庭を顧みず、夫人と娘と別離せざるを得なくなった」「楽譜に忠実に演奏することはできるが、感情を推し量ることができなくなった」「感情を推し量れないので、感情をのせて歌うアリアは不得意な分野」というバックボーンを組み立てます。この背景を思い付いたのは、他でもない「映画を追求するあまり友達を作らなかった」自分と重ね合わせたから、に他なりません。

追加シーンで得られた3つ目は、ミスティアが『MEISTER』に参加することになったことです。漫画第1巻では新人女優ナタリーを導く先輩ですが、『MEISTER』自体には参加していません。劇場版では別離した夫人の役として出演することになるのですが、その条件として「ミスティア」名義ではなく偽名で出ることに。肌の露出が多め、お色気シーンが多めの普段とは打って変わって、髪の色は金髪から茶髪に、特殊メイクで普段の派手な顔を隠して、全く違うミスティアの一面を出しています。

B級映画にばかり出演していて、フワッとした雰囲気の彼女はともすると「おバカタレント」枠になってしまいがちですが、実際は役作りのために体を鍛え上げ、演技レッスンに熱心に取り組む努力型の女優です。そんな彼女の実力は漫画では第2巻から本格的に描かれるのですが、劇場版ではこの追加シーンで彼女の違う一面を魅せてくれています。当初はグラビアをやっていた実力派女優、綾瀬はるかかな?

追加シーンを撮ることで当初のスポンサーが降りてしまい、資金繰りに窮してしまうポンポさん。そこへ資金提供の話を持ち込むのが、ジーン・フィニのハイスクールでの同級生であり、劇場版のオリジナルキャラクターであるアランです。この撮影の裏側で奔走する人たちの姿を描いているというのが追加シーンでのメリット4つ目でしょう。銀行から融資を得るための作戦はいささか危ない橋を渡りすぎで、現実的に考えたら「そんなこと上手くいくわけ無いだろ」とツッコミをいれたくなるシーンではありますが… まあ良いんですよ、映画なんだから

さて、3000字ほど書いて、ようやく語りたかったことに辿り着けそうです。劇場版で使われている音楽、グスタフ・マーラーの交響曲第1番《巨人》と、ヨハン・セバスティアン・バッハのマタイ受難曲のアリア「わが頬の涙」について。

劇場版には他にも、例えばビゼーの交響曲ハ長調なども使われているのですが(下記の公開直前PVにも一部使われています)、この曲がクレジットされておらず、マーラーとバッハがクレジットされているのには、ストーリーを進める上で大事な要素が込められているのです。

グスタフ・マーラー/交響曲第1番《巨人》

曲の成立について

この曲は当初、交響曲ではなく「交響曲様式による音詩《巨人》」というタイトルで、5楽章からなる作品として世に送り出されました。その第2楽章は「花の章 (Blumine)」というタイトルで、作曲当時に歌手ヨハンナ・リヒターに失恋してしまったことが作曲への影響を与えていると言われています。感情たっぷりのトランペットソロは恋心をそのまま表現しているように思えます。

その後マーラーが改稿した際、編成に手を加えた他、「花の章」はすべてカットされ、全4楽章の「交響曲第1番」というタイトルとなりました(正確に言えば《巨人》という副題も交響曲には付いていません)。「花の章は流石に未練たらたら過ぎてやめておこうか…」とか「純器楽による交響曲なら4楽章構成の方が整っている」とか考えたかどうかは分かりませんが、とにかく現在交響曲と呼ばれている作品には花の章は削除されています。

ダルベールがこの曲を取り上げた理由

この曲が劇場版から流れたとき、「あ〜ダルベールこれ演りそ〜」って思わず頷いてしまいました。マーラーの作品はどれも編成が大きいのでまず迫力があって、その中でも交響曲第1番は「純器楽で演奏できる(第2番〜第4番などは声楽が必要)」「曲想が分かりやすくド派手にフィナーレになる」ということで、派手好きそうなダルベールにもってこいです。しかも大編成なのにマーラーの作品は各楽器に重要なソロを求められることが多く、演奏終了後に「なんだあのフルートは!」とダルベールが怒ってしまいそうな、奏者のクセや失敗なども耳に残りやすい、という特徴があります。

劇場版ポンポさんでこの曲が使われた理由

ジーン監督による編集のシーン以降、「カットする」という言葉が多く使われます。それは「大量に撮影された素材の中から必要なシーンのみ厳選して必要でないシーンは削除する」という意味です。が、ここではそれ以外にも、「ダルベールが家庭を切り捨てる」という意味にも繋がります。それは「ジーンが友情を切り捨てる」ということにも重なる、といったことは先述しました。普通に生きる分には必要であろう要素をも人生からカットして、ダルベールは音楽に、ジーンは映画に、人生を全振りすることを決断したのです。

「楽章をまるごとカットする」というこの曲が選ばれているのには、そういったダルベールとジーンの人生を喩えているところがあるのでしょう。


ヨハン・セバスティアン・バッハ/マタイ受難曲

曲の成立について

新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にした、オーケストラ・合唱・ソロ声楽などからなる、3時間に及ぶ大曲です。受難、キリストが逮捕され磔になって処刑される、精神的そして肉体的な苦痛のことです。この曲は1729年に初演された後、100年後にメンデルスゾーンが復活上演を実施したことによって、バッハの再評価に繋がったとされています。

ダルベールがこの曲を取り上げた理由

オーケストラに合唱、レチタティーヴォなど多様な要素によって構成される大曲に挑むということは並大抵な覚悟ではできません。バッハによる作曲は厳密かつ緻密に練られており、規模が大きい編成でガッシャーン!と迫力で押し通すこともできません。先述したようにアリアが苦手だったダルベールが、感情を音楽に取り戻したことを証明するために、敢えてこの曲に挑戦したということでしょう。

もしくは、メンデルスゾーンが復活上演したことでバッハの再評価がなされたことから、自身の復活公演により名誉を回復したい、というダルベールの想いもあるのかもしれません。

劇場版ポンポさんでこの曲が使われた理由

漫画第1巻でリリーが口ずさんだのは「Befiehi du deine wege / und was dein herze kränkt / der allertreusten Pflege…」という歌詞であることから、マタイ受難曲の中で44.(53) コラール「汝の行くべき道と」のようです。劇場版ではそれを52.(61) アリア「わが頬の涙」に変更しているようです。前者は合唱曲、後者はアルト独唱で、「一人で歌うアリアを口ずさむリリー」という描写には、アリアである後者が相応しいという判断でしょう(それにしてもリリーはなぜスイスの山奥であの曲を知っているのか…)。

BWV 244 Matthäuspassion

52. Aria A
Violino I/II, Organo, Continuo
Können Tränen meiner Wangen
Nichts erlangen,
O, so nehmt mein Herz hinein!
Aber lasst es bei den Fluten,
Wenn die Wunden milde bluten,
Auch die Opferschale sein!

マタイ受難曲(訳 伊藤 啓)

第52曲 アリア(アルト II )
 たとえ私の頬に涙が流れなくとも、
 おお、私の心を受け取って下さい。
 しかし主の傷が慈しみ深くも血を流すとき、
 私の心をこの血で満たし、捧げ物の皿とならせ
 て下さい。

磔にされているイエス・キリストを、周りにいる者は助けることができない。泣くことすら憚られる環境であっても、この憐れむ気持ちは真実である――

音楽に殉じる覚悟を持ったダルベールは、普通の家庭をもつことはおそらく今後もできないでしょう。しかし元妻の、娘の安寧を祈る心は本物である、ということをこの曲は示唆しているのかもしれません。

或いは、音楽に殉じる覚悟のダルベールを、家族として同じ家の中で過ごすのではなく、舞台と客席という距離をおきながらも見守る、元妻の心境を描いている、と言えるかもしれません。


この2曲はエンドロールにもクレジットされていることから、おそらく何かしらの意図を持って選ばれているのだと思います。選曲の意図は広く宣伝されていませんが(少なくともパンフレットにそのような表現は見当たらず)、音楽の繋ぎ方一つをとっても、この映画が多くのスタッフの想いが込められていることがわかります。

コロナ禍で様々な作品が公開延期になった結果、現在の映画館で上映される作品数が多く、上映機会が少ない作品も少なくないでしょう。しかしいい作品はやはり映画館という大きなスクリーン、迫力の音響でこそ観てほしいものです。機会ありましたらぜひとも劇場で御覧ください。


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