2011年2月14日追記:この記事は、2002年から2005年にかけて在校していた頃の学校について、2008年に回顧して執筆したものです。書かれた文章の正確性については万全を期したつもりではありますが、全て6年以上も前の事柄であり、現状とは異なる内容が含まれる場合が大いにあります。最新の情報については、学校にお問い合わせください。
管理人・B4たかしは、記事の内容について一切の責任を負いません。
SSHについての調査票も届いたことだし、ここらへんで自分の出身校である東京工業大学工学部附属工業高等学校(現:東京工業大学附属科学技術高等学校)について書き記しておきます。
まずは、以前回答した高校バトンから一部引用:
高校バトン
- 高校名は?
- 東京工業大学工学部附属工業高等学校(現・東京工業大学附属科学技術高等学校)、略称東工大附属科学技術高校、東工大附属科技高、東工大附属高校、東工大附工高、東工工工高校、東工大附属、東工大附、東附、等
- 制服は?
- 工業高のためありません。もっぱら目にするのは白衣か作業着。後半の頃は制服に憧れたりしました。
- 部活は?
- 心機一転、吹奏楽部に。トロンボーンやり始めました。何だかんだで自分たちの代からいろいろ構造改革に奔走しましたね。
- 何で通ってた?
- 自宅から高校まで京王線・山手線で。行きは1時間半、帰りは1時間ちょい。
- バイトは?
- してませんでした。そんな暇も体力も精神力も残ってなかった・・・。
- 1番好きだった先生は?
- 高校ではパッと思いつかないなあ・・・数学のS江さん?
- 1番好きだった場所は?
- 吹奏楽部の活動場所だった音楽室かな、一番長い時間居たのあそこだし。あと機械科の電気実験室だっけ、通称K研究室とか、雑多な雰囲気が好き。
- 1年生の時の思い出は?
- 修学旅行の行き先が北海道になったことに腹を立てて反抗して担任に返り討ちを食らったこととか。
- 2年生の時の思い出は?
- 吹奏楽部でコンクール初出場&アンコン初銀賞等、吹奏楽部を新たなステージへ発進させた時期ですからね。おもに主導したのはナキャムラとかyoku-tとかきえとかwassanとかですけど、自分も公式ウェブサイト開設とかそれなりに頑張ってました。部の略称をTITECH Windsにしたのは自分だ、と何度も自慢してます。
- 3年生の時の思い出は?
- 課題研究のリコーダー演奏ロボットが工学院大学の賞を受賞したこと、高大連携のサマーチャレンジでカードゲームばっかりしてたこと、それにも関わらず高大連携特別選抜に選ばれてしまったこと、友達4人で卒業旅行として愛知万博に行ったこと・・・等々。
- 高校のときのマイブームは?
- 沿線途中下車?といっても大崎とか渋谷とか新宿くらいだけれど。
補足しておくと、東工大附属高校は2005年に、今までの「東京工業大学工学部附属工業高等学校」から「東京工業大学附属科学技術高等学校」に名称を変更しました。ただの名称変更ではなく、「工学部附属」から「大学附属」にすることでより大学と高校との連携を深め、「工業高校」から「科学技術高校」とすることでより時代のニーズにあった科学技術者を輩出しようという意気が見えます。まあ工高から科技高になったことでのカリキュラム変更は特にないんですが。そのかわり高大での連携は深まりましたが、その話は後ほど。
あとWikipediaの記事がなかなか充実しているので、その文面と比較しながら解説します。
在学生の大半が入学時から東京工業大学を始めとする理工系大学・学部を志望している。
まあこれはそうかな。自分が在籍していた時は、入学の志望理由は「家が近かったから」「レベルが合ってた」「工学が勉強できそうだから」「東工大にもしかしたら行けるかも(註:入学した時点ではまだ特別選抜の制度はなく、あくまで願望でした)」とかでした。
でも、うちの高校は大学進学志望の人でも、浪人してしまうということを忘れてはいけないな。自分より上の学年では卒業生の半数以上が浪人とかあったようだし。さすがに今は改善されたんでしょうが、進路相談に関する充実度は微妙。自分が利用してないだけな気もするけど。
あと、進学だけでなく就職希望の人も若干ながらいます。鉄道会社とか国家公務員とかに何名かが就職しています。
2004年度卒業生から国立では珍しい併設大学(東京工業大学)への推薦入学制度が導入されており、毎年10名が選抜されている。2006年度卒業生は推薦・一般を含めて12名が東京工業大学へ進学した。なお、2006年度卒業生までは定員が10名であったが2007年度卒業予定者に対する特別選抜枠は11名と増加することになった。
特別選抜(いわゆる推薦入学制度)ができる前は、東工大に1人でも受かれば良い方でした。一気に10名が優先的に入学できるのはやっぱ画期的だったのかな。
ちなみに2004年度・2006年度卒業生での特別選抜は10名だけど、2005年度は9名。何故かと言えば、選抜に内定した10名のうち1名だけが、「実は他の大学に行きたかった」と内定を取り消したため。
東京工業大学田町キャンパス内にあり、同じ敷地内にはキャンパス・イノベーションセンター東京も存在する(基本的に生徒は3年間入る事はない)。
キャンパス・イノベーションセンター(CIC)は高校とは門も別に設けてあるので、基本的に素通りです。自分は一度だけ入ってみましたが、受付のパンフレットだけGETしてそそくさ出て行きました。
ちなみにCICの7階から9階は東京工業大学が入居していて、大学院のイノベーションマネジメント研究科(MOT)があるのですが、やっぱり附属高校生には関係ありません。
戦前には東京高等工芸学校(現千葉大学工学部)があり、その中に東京放送局(現NHK)の仮放送所が設置され、日本のラジオ放送の第一声がここから放送された。これを記念する「放送記念碑」と「千葉大学工学部発祥の地」と刻まれた碑が敷地内に建立されている。
まあこれも関係ないといえばないのですけどね、一応自慢できることかと。碑はフォト蔵にも載せています。
校風は非常に自由で私服校である。特に持ち込み禁止となっている物はない。
ちょっと自由すぎるかと。紙を染めたりピアスの穴をあけてもオッケー。ただしクラス担任の先生が体育教員だったりすると面倒かも。でも授業中にケータイを(机で隠しながら)使っているのも珍しいことではなかったし。たまにクラスの一人くらいは上半身裸になってましたねえ。
エアコン等の設備もあり、
自分が入学したてのころ(2002年中頃まで)に教室にはエアコンはなく、夏の暑い日は窓を開け放って授業をやっていました。たまに駅の発車ベルの音が教室内まで届くことも。
エアコンが設置されたきっかけは、先に挙げたCICの建設。工事の騒音のため窓を閉めなけりゃ授業が出来ない、という経緯でエアコンが2002年の9月中頃に設置されました(確か)。それがなかったら教室のエアコン設置はもっと遅れたかも。
男女共学であるが、全校生徒に占める男子の割合が8割強と圧倒的に多く、男子校の様な雰囲気である。
これでも女子は増加傾向です。昔は学年200人のうち5〜6人だったりとか。現在でも機械科は40人のうち1人いるかどうかですけど。
男子校の様、ではありますが、決して男子校とは違います。クラスに女子が一人居るだけでも雰囲気って変わるでしょ?
基本的には工業高校の為、文系科目である世界史・英語・古典等は大学受験で必要最低限の分野のみ履修する事になっている。
インドのことになると時間をかけすぎちゃう世界史の先生、1時間で一文も進まなかったりする古典の先生 — 授業時間は少なかったけど、面白い先生が沢山いました。
普通の公立校との違いは、先生の異動が全くないこと。だから附属高校に就職すると大抵定年まで勤めることに。変な人が多いのはそのせいか。だからといって文系の授業のレベルが低いかと言うと・・・そんなことも、ない、かも。
その分数学を始めとする理系分野の授業は単位数が多く、分野に拠っては大学での講義レベルに達するものも存在する。本校のレポートは、二学年からの専門分野の時から各分野独特のレポートが課せられ、提出しないと評定はつかない、レベルの高いものとなっている。また一部のレポートに関しては、そのレポートが優秀な場合に表彰されることもある。レポートの数は1人年間 30以上で、勉強との並立をうまく考えなければならない。
そうそう、ついつい話が長くなっちゃって高校の化学の範囲を超えて話しちゃう先生もいました。というか各学科(機械・電気・電子・工業化学・建築、現在は応用化学・情報システム・機械システム・電気電子・立体造形の各分野)の授業はだいたいにおいて大学の授業の先取りみたいなものなので。
レポートは確かに多かった。週に5つレポート提出、なんてこともざらでした。レベルを比較しちゃうと大学には劣るだろうけど、手書きでテキストを丸写ししろとか結構ハードな課題もあったり。
ちなみに、この高校の場合、成績が悪いと本当に留年しちゃいます。留年の基準は「9単位以上、評定で1がつく」か「評定で0がつく」か。「評定0」はカンニングがばれたりしない限りあり得ませんが、「評定1」は定期テストの平均点が40点に満たないと(教科の先生がかさ上げしてくれないと)本当にやってきます。評定1が8単位以下でも学年は上がりますが「仮進級」ということになり、追加レポートなどに苦しむ結果になります。
従来は5学科(機械・電気・電子・工業化学・建築)だったが、組織・校名変更にあわせて2005年度入学者より5科が科学・技術科に統合され、その中で5つの分野(応用化学・情報システム・機械システム・電気電子・立体造形)に分かれることになった。
工業高校から科学技術高校になった結果こうなったわけですが、先の通り授業内容に特に変更はないようです。でも分野名がやたら長いのは、やっぱ名前だけ変えて倍率アップを目論んだとしか考えられません。
普通科もしくは高専とはかなり変わった校風にある。前述の通り校内はかなりの自由で特に規定というものはなく、すべては生徒自身の責任である。学園祭や体育祭といった一般的行事についても他一般校に比べて盛り上がりはなく、装飾関連の準備も前日からと言った具合である。だがその分無駄な時間をとらず毎年きれいに終わるのが特徴である。
モノは言いようだなあ(笑)。文化祭の前の休みが、文化祭前日の1日しかないから装飾に手間を取れないのは致し方ないです。片付けはあっという間に済んでるし。文化祭の次の日は大抵が体育の日なので、特に片付けで授業が休みになるということもないのが残念。
文化祭が盛り上がるかどうかは、生徒会の役員にやる気があるかどうかにも関わってきます。自分が2年のときは役員も頑張ってパンフレットを凝ったものにしてましたね。
それにしても、体育祭の準備が、前日の午後だけっていうのはヒドすぎる。
各々の授業にも特徴があり、特に本校の体育の授業もなく環境は全国でもトップレベルである。水泳施設での衛生管理(塩素濃度、気温調節)も国から評価を受けており、授業内容も一風変わっている。一般的な年間を通しての例えばサッカーやバスケットと言った具体的なカリキュラムがあるのではなく、生徒自らが授業内容を作成し、グループで実施する。毎回おのおのの授業計画を練りそれが成績につながる。体育の「技術」面ではなく、あくまで国語や数学とものと同様「体育学」として教育していこうという狙いである。体を思いっきり動かして楽しみたいというだけの生徒にとっては本校の体育の授業は難しいであろう。
保健体育だけ、なんかやけに詳しいな・・・。
体育の授業は、1年時には体操を創作するプログラムがあり、夏になるとその体操で水泳の前の準備体操にしていました。創作体操が下手だと、水泳してる最中に足つっちゃう、と。2年時には、「効率的なスポーツの練習方法」をグループで考える授業もありました。
ちなみに文化祭前のシーズンになると、某体育教員が担任のクラスは、強制的に文化祭の出し物である「そば打ち」をやらされることになります。自分もやりました。なぜか大学に進学してからもそば打ちを高校の生徒に教えるために駆り出されたなあ・・・。
こうして見ると、Wikipediaの記事も結構バカに出来ません。かくいう自分も、以前(2005年)に沿革を大幅に加筆したり、高校の写真を付け加えたりと結構貢献していたりします。
Wikipediaで触れられていない特徴を挙げるとすれば、「高校のそれぞれの建物が屋根や渡り廊下で繋がっていない」という点。普通なら新校舎と旧校舎があっても渡り廊下くらい設けているものですが、東工大附属高校の場合、本館・2号館・3号館-体育館・4号館がそれぞれ独立した建物になっています(3号館と体育館は同時期に作られたため1階の屋根が繋がっていますが)。ここらへんは大学の建物作りのノウハウそのままというかんじで、高校生主体に作られていない気が。まあ実験棟(2号館)なんかは天井の高さも違うししかたないのかもしれないけど。
そいえば言ってなかったけど、学生食堂的なものはありません。1階に生協の売店がありますが、駅の売店くらい小さい設備で、とても600名弱の生徒の昼食をまかなえません。昼食は弁当を持参するか、学外のコンビニ(LAWSONはかなり店舗を構えています)・ファストフード(神戸らんぷ亭や吉野家、ロッテリアなど、田町駅の反対側にはマクドナルドもある)などを使います。別に授業時間でなければ校外に出て良いので。最近までは芝浦工業大学の校舎が徒歩3分の位置にあり、よその大学の生協食堂を使うなんて手もあり、何と東工大附属高校の教員も頻繁に使っていたようです。残念ながら豊洲に大学の設備が移転したことにより、食堂もろとも校舎が取り壊されてしまいましたが。
この続きはまた次の記事にでも。